はじめましての方も、そうではない方もこんにちは。
ふざけたことを大真面目にやることがモットーの安藤健人です。
このページでは、暇な方に向けて僕の自己紹介をしたいと思います。
人生の貴重な時間を、無駄にしても後悔しないという方のみ、この続きを読んでみてください。
東京で会社を経営しています!
僕の後ろに写っている、とても立派なビルが見えますでしょうか。
そうです。このビルは僕とは全く関係ありません!
僕の経営する会社は2018年に世田谷区のアパートの一室からスタートしました。
数度の移転を経て、現在は東京都中央区に移転をしています。
従業員は常時2~3人程度の小さな会社です。
青汁王子の会社で成果を作った男
これは、2014年7月の写真です。
真ん中に写っているのは、青汁王子こと三崎優太さんです。
僕は18歳から20代の中頃まで、青汁王子と一緒に多くの経験をし沢山のことを学びました。
この時は、スタッフは僕ともう一人だけしかいませんでした。青汁を売り始めて間もない時ですね。
青汁王子の会社がまだ「メディアハーツ」という名前だったころです。
右の彼は今、年商80億円の関連会社を任されている敏腕社長です。
かたや僕は独立して、9年が経ちます。
青汁王子の話を抜きで僕の経歴は語れないので、ここから、少し時間をさかのぼります。
三崎優太(青汁王子)と僕の出会い
三崎優太とは、中学校の同級生です。
1年生の時に、仲良くもなかった三崎君が僕に話しかけてきました。
「君、柔道やってて強いんだってね!俺のことぶん投げてくれない?」
次の瞬間、内股という技でぶん投げてやりました。
投げられた三崎は、なぜかえらく感動したようで、それから僕たちはとても仲良くなりました。
彼とは、2年生の時と3年生の時に同じクラスでした。不器用だけど人懐っこくとてもいいヤツでした。
高校3年生卒業間近の冬にアフィリエイトスタート
僕は札幌の高校に進学をし、三崎君も同じく札幌の別の高校に進学しました。
地元からは4時間半の距離があります。
2009年の3月、高校3年生の時です。
急に三崎君から電話がかかってきて
「健ちゃん、すごくいいのを見つけた!」と言ってきました。
話を聞くと、「アフィリエイト」というインターネットで稼ぐ方法とのこと。
アフィリエイトというものを知らなかったので、ちょっと怪しく感じました。
その頃はインターネット黎明期だったので、インターネットで稼ぐ方法なんてあるとは知りませんでした。
3~4回断ったと記憶しています。
三崎は諦めず僕をアフィリエイトに勧誘しました。
その熱意に負け、進学のために東京に出てからすぐにPCを購入し、アフィリエイトをスタートしました。
最初はサイトの作り方も、HTMLもわからないので苦労しました。
アフィリエイトの師匠に呼ばれた
同年4月、三崎君がアフィリエイトを知るきっかけとなった本の著者に、渋谷の「ラ・ボエム」に呼ばれました。
その方は、堂本剛のようなクセのある服を身にまとい、綺麗な女性の肩に手を回しながら
「おつかれっす~!」みたいな超軽いノリで現れたんです。
いかにも成功してますみたいな感じで、東京にはこんな人がいるんだと衝撃を受けたのを覚えています。
その方は当時まだ20代前半で、大成功しているIT企業の社長さんでした。
三崎に東京に出てくるようにと熱心に誘っていました。
その少し後に、三崎は東京に出てくることとなります。
人集めに尽力
三崎君がついに東京に出てきました。
そして、アフィリエイトグループをさらに拡大をすることを考えていました。
サイトを運用するために、人手が必要だったので僕が同級生に声をかけました。
中学からの同級生が数人、美容専門学校の同級生数人が一緒にやってくれることとなり、メンバーが増えていきました。
はじめてからすぐに、みんな大金を稼ぐようになります。
三崎君が取り分を決めて配分していました。プチフランチャイズみたいな感じですね。当時18歳です。
カンタンに稼いだかというと別にそうではなく、しっかりと作業をしないと稼げないため仲間のみんなは頑張ってくれました。
僕が2年間の美容専門学校での勉強を終え、卒業するころには発起人である三崎君はすでにかなりの資産を蓄えていました。
これは、港区で参加した成人式の写真です。時代を感じますね(笑)
メディアハーツに就職
僕は美容専門学校の卒業と同時に、美容師にならずメディアハーツに入社することとなります。20歳の時です。
事務所は原宿の竹下通りにありました。
すでに5~6人の正社員が雇われており、ガラケーの「月額」サイトの作成に力をいれていました。
順風満帆に見えましたが、その時のスタッフの一人が三崎君を裏切ったようで、落ち込んだ三崎は会社を休眠させます。
僕は4月に入社し、7月に退社したのでわずか3ヵ月しか一緒に仕事ができませんでした。
2~3社を転々と移る
その後僕は、東京都内のIT会社での仕事を2年ほど経験します。その時にパソコンのブラインドタッチを覚えました。
当時入った会社はどこもめちゃくちゃブラックだったので、1年以内に会社を変えていました。
2011年、東日本大震災が起きたのをきっかけに自分の人生を考えるようになります。
「人間いつ死ぬかわからないのに、こんなブラック企業で楽しくない仕事をしていては後悔する!」
せっかく美容専門学校を卒業したのに、美容師として働いたことがなかったので美容師になりたいと考えました。
ブラックIT企業を退職し、下北沢の美容室で2年半ほど働きます。
これがその時の写真ですが…
目つきが怖いですね。この時が人生で一番貧乏でした。
2013年にメディアハーツ再始動
25歳の時です。僕が別の美容室に転職をしようかと考えているタイミングで、また三崎君から電話がかかってきました。
「健ちゃん!またうちの会社で働け!」
と言ってくれました。きっと儲かるからと熱く語ってました。
これが、5年近く休眠状態だった会社を三崎君が復活させるタイミングでした。
スタッフは誰もおらず、三崎君が一人で株やFXで運用して資産をさらに大きくしていました。
三崎君の作戦としては、事業を2本立てで行くとのこと。
- 情報商材事業
- 通販事業
当時は、与沢翼が山手線を広告ジャックしたりしてかなり情報商材業界が盛り上がっていました。
また、周りの会社で「ネット通販」をやっているところが儲かっているらしいというのを聞きつけたみたいです。
僕は、情報商材事業の方の立ち上げを任されることとなりました。
5年の時を経て、2013年の8月からまた僕はメディアハーツで仕事をすることになります。
どうして僕が選ばれたのか?
どうして三崎は僕のことをこんなにも熱心に誘ってくれたのでしょう?
1ヵ月以上の期間、毎日三崎から電話がかかって来ていました。
当時は、仲が良かったからかなくらいに思っていましたが、今となっては何となく理由がわかります。
きっと三崎君はさみしかったんだと思います。
信頼していた社員に裏切られ心に傷を負いました。5年も会社を休眠させるほどです。
このころの三崎君は「おれは太く短く生きる!」「50歳くらいまで生きられれば十分」
と言っていました。
僕も経営者となった今だからわかりますが、経営者は孤独です。
ずっと一人で戦っているような気がしてしまうことだってあります。
なので、今まで仲良くて裏切ったりすることが考えられない僕に白羽の矢を立てたのでしょう。
再スタートしたメディアハーツの初期
情報商材事業の立ち上げをするために、僕は本を読んで勉強しました。
調べていくと、情報商材業界は落ち目だということがわかりました。
かなり勢いがあった与沢翼が、ホームレスに転落というニュースが出たのもこの時期です。
早々に撤退し、次に「SEO事業」を立ち上げることになりました。
三崎君から言われたのは
「健ちゃん、青汁ってワードで1位にして!」
という課題のみでした。
毎日、電車の中でスマホでSEOについて調べ、家に帰ってからは自分でサイトも立ち上げて運用したりしながらノウハウを蓄積してきました。
ですが、これはかなり無謀でした。
一般的に、SEOで上位表示するまでには最低でも半年はかかると言われています。
ましてや、青汁というキーワードはSEOで1位になると、月間300万円位のアフィリエイト報酬が見込める超競合ジャンルです。
猶予が3ヵ月しかない中でベストを尽くしましたが、青汁で1位に上げることはできませんでした。
青汁の制作
同時進行で通販事業を任されたもう一人のスタッフが、青汁の作成に着手します。
みんなで、バーに青汁を持っていき、いろんな飲み物と混ぜました。
緑色の青汁と、赤いトマトジュースを混ぜてどす黒い液体が出来上がったときには、正直
「これ、無理なんじゃないか?」と思いました。
ですが、そこで諦めないのがメディアハーツ精神です。
もう一人のスタッフがOEM会社にいくつも問合せ、フルーツ青汁の提案をもらい開発にこぎつけました。
準備していた青汁の商品が出来上がるころに、僕が青汁の販売ページ「LP」を作ることになります。
青汁が嘘のように売れた!
青汁の販売ページには、情報商材の勉強をした際に学んだ「ダイレクトレスポンスマーケティング」の技術をふんだんに盛り込みました。
これは、かんたんにいうと心理学を取り入れたセールスの技術です。
それに加え、僕が考案した「あるキャンペーン」を1ヵ月目の終わりに仕掛けました。
すると一気に認知が広がり、青汁が飛ぶように売れるようになりました。
僕の作ったLPは、成約率が1%行けば上々と業界では言われている中で、10%を超える成約率をたたき出していました。
当時、ダイレクトレスポンスマーケティングを高いレベルで取り入れたLPというのが少なかったからです。
当時は「日本一売れるLP」と言われました。
そんな感じでうまくいって一安心と思ったときに、大きな問題が発生します。
社長!青汁の在庫が足りません…!
青汁が売れすぎて生産するスピードが追いつかないということがおきました。
定期コースでお申込いただいたお客様にお届けする商品がないと、お客様は続けることができなくなってしまい、二度と商品を購入しなくなってしまうかもしれません。
三崎君は、スタッフに考えさせました。
「どうしたらこの問題を乗り越えられるか?」
三崎君のすごいところは、「なぜこうなった?」という質問をしないところです。
どうしたらうまくいくかのみをスタッフに問い続けます。
できなかった理由を問うと、スタッフはたちまち言い訳を考え始めます。これは僕が経営者になってからも大切にしている考え方です。
この時にスタッフは4人に増えており、みんなで何日も頭をひねって考えました。
そしてついに…
当時日本ではどこもやったことがないような方法で、青汁の製造をなんとか間に合わせることができました。(企業秘密のため内容は書けないのですが…)
商品在庫が足りなくなりそうであれば、普通は広告を緩めて新規のお客様の獲得を減らして調整します。
ですが、三崎君はそれを許しませんでした。
うまくいっているときに、ブレーキをかけないということを徹底し、1億円近くを投入していたと思います。
もしあそこで、三崎がブレーキをかけていたら、今のような大成功が少なくとも3年は遅れていたと感じます。
商品の製造が追いつくまでの数か月、苦しい戦いでしたが、青汁が潤沢にできあがってくるころには、月の売り上げが1億円を超えていました。
僕たちは、業界でも登り竜のように名を上げ、かなり有名になっていました。
立て続けに2商品目も成功
2商品目は化粧品でした。
僕はこの化粧品のLPにもダイレクトレスポンスマーケティングの技術を取り入れて作成します。
これは、当時僕がFacebookでつながっている方に向けてアンケートを取った時のものです。
工夫さえすれば、費用をかけずにマーケティングを行うことができると、この時に学びました。
結果は、こちらの化粧品も売れ行きが好調でした。
メディアハーツは1年経たず、通販業界でも確固たる地位を築き始めていました。
ついに青汁で1位に!?
このころさらに、僕が仕掛けた青汁のSEOが時間差で功を奏し、見事「青汁」というキーワードでホームページが1位を獲得しました。
毎日何百個と青汁が売れていき、外部の勉強会に行けば競合からヒーローのように扱われる。
人生の全てが上り調子に感じました。
そんなすべてが順調にいっているように思えたころ…
僕は三崎君と揉めて会社を退職します。
2015年の8月15日に話し合いが決裂し、同月末に僕は退職する運びになりました。
一転してどん底の生活に
実は入社時に勢いで入ったので、適当な契約しかしてませんでした。
給料も少なく、社会保険にも入っていなかったので貯金は全くありません。
同じく通販を始めようにも、その頃は最低でも2000万円の資金が必要だと言われていて、全くお金が足りませんでした。
ただ、自分にはSEOを成功させた経験がある。
「SEOで生計を立てよう!」
と心を決めました。
「人が今後もずっと必要とする情報サイトというのはどういうものか?」と考えたところ
「病気は無くならない!病気の情報サイトだ!」
と確信を持ち、情報サイトを複数立ち上げました 。
借金が100万円を超えかけた時・・・
毎日一生懸命サイトを作っていましたが、SEOというのはすぐに結果が出るものではありません。
毎月、カードローンでお金を借りて4ヶ月目にはついに借金が100万円を超えようとしていました。
生きた心地がしませんでした。
ここで失敗したらもう自分はダメかもしれないと考えると、怖くて夜に涙が出てきます。
人生で数回経験した絶望のうちの1回でした。
ですが、ここで天が味方をしてくれます。
痛風のサイトが50万PVに
作成したサイトが軒並み順位を上げ、痛風の情報サイトが月に50万回以上見られるサイトへと成長しました。
さらに、更年期障害の情報サイト、結石の情報サイト、ニュースサイトなども軒並み右肩上がりにアクセスがアップしていました。
4ヶ月目にアフィリエイトで月に100万円の報酬を得ることができるようになり、会社をやめた後にできてしまった借金を1ヶ月で全て返済しました。
そこからは毎月100万円以上を稼ぐことができるようになりました。
年商2000万円の若社長に
その後もどんどん売り上げは増え、半年後にはさらに年商2000万円のペースに乗りました。
アフィリエイトというのは原価がかからずほとんどが利益になるため、このままではかなり利益が出てしまいます。
急いで会社を作りました。
お金を稼げそうな名前にしたいと思ったので、金星の神様から名前をいただき、会社名を
「株式会社ファロール」としました。
日本一のマーケッターを目指して
会社が立ち上がる頃、通販のコンサルティング業を始めました。
それに付随し、マーケティングのセミナーもスタートしました。
三崎君と一緒に通販を成功させた僕にとっては、通販は「かんたん」でした。
コンサルティングを承った会社さん全て合計すると、500億円以上の売上げアップに貢献してきました。
自分の力によって、取引先が大きく繁栄していくようで、万能感を感じとても楽しかったです。
日本一のマーケッターと自己紹介しても過言ではなかったでしょう。
そんな中、2020年に流行病が日本を襲います。
コロナ禍で売上がゼロに
コロナ禍に入り、通販業界は大きな波に揺さぶられていました。
巣篭もり需要で売上げが増えた会社もあれば、断捨離にあい売上げが減った会社もありました。
不安定な情勢の中、各社社内にお金を残そうという動きに向かいます。
月に30万円以上のコンサルフィーをいただくコンサルタントは、真っ先に経費削減の対象になりました。
年商2000万円から、お客様が0になりました。
サラリーマンとして働くことに
仕事が全くなかったので、就職活動をすることにしました。
今まで社長として5年間ずっと黒字の会社を経営してきました。
成果をずっと出してきただけに、かなり凹みました。
ビズリーチに登録し、何社も面接を受けました。
会社を維持するためには、年収1000万円は譲れませんでした。
大切なのは、面接先の社長に話を聞いてもらうこと。
なぜなら、年収1000万円の要求というのは、面接担当者よりもずっと高い給料となってしまう可能性が高いからです。
思った通り、社員が面接を担当した会社はことごとく落とされました。
そんな中で、社長とお話しできた会社2社とご縁があり、雇っていただくことができました。
週1回の出勤で20万円?
年収1000万円となると、役員の給料を超えるとのことで、週1回の出勤で月20万円をもらう契約となりました。
つまり、日給換算すると5万円になるのでフル出勤だと月110万円前後となり、年収1000万円の基準は満たしていることになります。
その条件で契約できた会社が2社あったので、月40万円です。※片方の会社は消費税分ものせてくれました。
このペースであと3社増やそうと、やる気になっていました。
体がついてこない・・・
そんなやる気とは裏腹に、体がいうことを聞かない時がありました。
コロナ禍で自由が制限され、相当ストレスが溜まっていたんだと思います。
ある時、頭に特大サイズの円形脱毛症ができました。
その直後に、顔面全てにヘルペスができて見るも無惨な状態に。
さらにその半年後には、首から肩に酷いコリと痛みが発生して、パソコンをするのが難しくなってしまいました。
無理な仕事の仕方をしていたため、体が壊れていくのを感じていました。
自律神経が悲鳴をあげていました。
僕は洋服を売りたい
契約をもらった2社では相変わらず仕事をしながらも、不調と未来のお金の不安と戦う毎日。
そんな中、元々の夢について考えていました。
通販で大成功をしたことがあるんだから、自分でも通販をしたい。
でも、通販の元手の資金2000万円を用意するのは難しい。
「そうだ、中古の洋服屋さんをやるのはどうだろう?」
仕入れたものを全てインターネットで売れば店舗は必要なく、洋服を保管しておく場所だけです。
調べてみると、コロナ禍で中古のリユースショップは洋服に限らずどこも業績を伸ばし続けてました。
これは勝機がありそうだ!と思い、毎日YOUTUBEで情報を調べていました。
洋服をセカンドストリートやトレファクから買ってきて、それをメルカリなどのネットで売るやり方があるみたいでした。
それを「せどり」と言うようでした。
せどりをはじめよう!
2022年の1月、一番最初の仕入れにバイクで行きました。
真冬の寒い中、1時間近くかけてセカンドストリートに利益になりそうなものを仕入れに行ったんです。
最初は全く分からずに適当に仕入れをしていましたが、毎日YOUTUBEで情報を集めるうちにコツがわかってきました。
古い洋服屋バッグは壊れているものも多くあるが、それを治せたら利益が増えるというものでした。
元々美容師だった時の薬剤知識を活かして、洋服のクリーニングやバッグのリペアの技術を開発しました。
本当にボロボロのバッグを新品と見間違うレベルにまで直すことができるようになりました。
たった1年で年商1700万円?
せどり開始から1年が経っていない2022年の12月末に、月商が200万円の大台に乗りました。
洋服せどりは利益率が30%くらいが相場なのですが、うちの会社は利益率にこだわり50%以上を維持していました。
リユース業界で大成功を収める未来がうっすらと見え始めました。
予期せぬ引っ越しと社名変更
2023年に入り、事務所のマンションが地上げにあい、立ち退きが必要になりました。
かなり忙しい時期の引っ越しで、かなりの体力を使いました。
社名もファロールからサイクレイトジャパンへと変更しました。
リサイクルから着想を得ているのと、ハイブランドのバッグを日本から海外へと輸出したいという思いからつけた名前です。
出張買取も始めるための準備したり、新しい事務所を整えたり、新しい古物市場に足を運んだり・・・
また、この時期に将来のことを考えて個人の力をつけるためにTikTokでの発信もスタートしました。
やることがありすぎてついに、限界を迎えました。
ガチうつ病になってしまった!
2023年の6月にうつ病を発症しました。
最初は、慢性疲労症候群かと思って情報を調べていたのですが、どうもそうではないかもしれない。
理由はないのに遠くに行きたくなり、感情の制御が効かないのです。
死にたいとは直接的に思いませんでしが、自分は生きている必要もないかもしれないと考えることもありました。
病院に行って薬をもらって飲んでも一向に良くならず、ついに3ヶ月後には動けなくなってしまいます。
1日中ベッドから出られず、朝ごはんを食べてまた寝て、昼ごはんを食べてまた寝て、夜ご飯を食べて寝るという廃人のような生活でした。
もしかしたらこの辛い状態は一生良くならないのかもしれない・・・。
そんなことを考え始めると次から次へと不安が出てきて止まらなくなります。
会社をたたむことに・・・
せどりを始めてから黒字になっていた会社ですが、売り上げを維持するためには働かなくてはいけない。
うつ病になってから仕事を休んでいましたが、どう考えても仕事を再開できる気がしませんでした。
自分の体調を優先して、会社を閉じる決意をしました。
実は、うつの症状がひどかった頃の記憶がごそっと抜けています。
この頃のことを思い出そうとしても、今なかなか思い出すことができません。
北海道の実家に帰ることに・・・
うつ病の症状がひどく、家事をしたり身の回りのことをすることすらもできなくなってしまったので、実家に帰ることにしました。
引越しの作業もできなかったため、両親や彼女の両親に手伝ってもらってなんとか北海道へと引越しができました。
その後、浮き沈みしながら少しずつ体調は回復していくこととなります。
2024年4月現在、かなり回復することができました。
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